奥渋谷にあるガラス張りの本屋「SHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERS(SPBS)」は今年で10周年を迎えた。
本屋でありながら、渋谷ヒカリエShinQsに雑貨店をオープンしたり、雑誌やメディアの企画・編集も行なうという「編集を中心とした総合企業」として活動を続けている。今年からは、このオウンドメディアやスナックの活動も始め、つねに「本屋」の定義を更新し続けている。
そこで今回、SPBSのこれまでを振り返るとともに、書店・出版業界の今後の展望について、当メディアの編集長である竹村が代表の福井さんに話をうかがうことにした。
編集・構成=竹村俊助+矢田部明里(WORDS)
インタビュー写真=横尾涼
プレジデント社を辞めてニューヨークへ
ぼくはプレジデント社という出版社で編集者をしていたのですが、35歳で会社を辞めました。
きっかけは、妻が文化庁の海外研修制度でニューヨークのコロンビア大学に短期研修に行ったこと。ぼくもなんとなく「ニューヨークに行きたいな」「一回、外の景色を見たいな」という思いがあってついていくことにしたのです。当時の社長にも「いつでも戻ってきていいから」と言われていたので「じゃ一回辞めてみようか」といった感じで辞めました。
マンハッタン ロウアー・イースト・サイドの通り。
福井さんが現地にいた当時は、今ほど盛り上がっているエリアではなかったそう
モダンダンスカンパニー「アルビンエイリー・アメリカンダンスシアター」の公演を観に行ったときの劇場ロビー
ぼくがニューヨークへ行ったのは、松井秀喜がヤンキースに入団した年(2003年)でもありました。現地でも松井選手を取材したり、日本でつくりはじめていた単行本をそのまま現地に持ち込んで編集作業を続けるなど、ちょこちょこ仕事はしていました。だけど、とにかくニューヨークは物価が高く、すぐにお金が尽きてしまって……。退職金も使い果たして「これ、働かなきゃやばい!」ってなって帰国しました。
帰国して、まわりの人に「フリーになりました」ってあいさつまわりをすると、編集やライティングのお仕事をいただけたのでそのままフリーの編集者になりました。
編集プロダクション「EDIT」を設立
あるとき、某ビジネス誌から、「テイクアンドギヴ・ニーズの野尻(佳孝)社長の連載を始めるのだけど、そのゴーストライティングをやってくれないか?」という依頼がありました。ぼくは、野尻さんのことは存じ上げなかったのですが、高校時代はチーマー、その後、明大ラグビー部で大学日本一を経験するという経歴に惹かれて、引き受けることにしました。これをきっかけに野尻さんとの面識ができました。
あるとき、某「G」で始まる雑誌の編集者に「最近面白い人いないか」と言われて、野尻さんのことを話したんです。そうしたら「面白そうな人だから、野尻社長の夜の交遊録を取材してくれ」と言われて、実際に1週間彼にベタ付きで取材をしました。
彼のまわりには、とにかくいろんな人がいるんですよ。秋元康さんだったり、藤田晋さんだったり、堀江貴文さんだったり。この取材がきっかけで、藤田さんや堀江さんとの面識ができました。
SHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERS 代表 福井盛太
ちなみに藤田さんは独特の間合いで仕事を依頼してくる方で、取材を終えた帰りのエレベーターの中で、ボソッと「福井さんって仕事依頼してもいいの?」と声をかけてきました。ぼくは「もちろんもちろん」と言って二つ返事で引き受けたのですが、これが、藤田さんの処女作『渋谷ではたらく社長の告白』につながっていった。ちなみにあの本のカバー写真は、SPBSでもいろいろお世話になっている若木信吾さんに撮っていただいています。
その後「Sports Management Review」(データスタジアム発行)という雑誌の制作を丸ごと請け負うことになり、編集プロダクションの「EDIT」をつくりました。これが初めてつくった会社です。
2,000万円を集めて雑誌をつくる
自分の会社をつくって、さまざまな人と関わるうちに、「働く」ということにフォーカスした雑誌をつくることができないか、と思ったんです。
ぼくは常々「ビジネス」とか「カルチャー」とか「ファッション」という分野の垣根を越えた雑誌をつくりたいと思っていて、「ビジネス」と「カルチャー」と「ファション」を同列に扱えるテーマが「働く」ということなんじゃないか、と思ったんですよ。そこで、スイッチパブリッシングの新井敏紀さんに企画書を提出しました。
すると新井さんから返事が来て「いいけど、お金どうするの?」って言われたんです。「じゃあぼくが出せばいい」と思って、いろんなベンチャー企業の経営者に「一口いくらお金を出していただけませんか? 売上高に応じて〇〇円分配します」と言ってまわりました。
それで結局2,000万円くらい集まったのかな……。新井さんも「2,000万円あれば充分」って言ってくれて、雑誌を刊行できることになりました。
「Sports Management Review」と「SWITCH ON BUSINESS」
拘置所から出てきたホリエモンとのモツ鍋
そうしてできあがった雑誌が「SWITCH ON BUSINESS」(スイッチパブリッシング発行)です。雑誌の中には、芸能系とかスポーツ選手とかファッションデザイナーとか、ベンチャー企業の人がワーっと出ていたんですけど、実はその中に堀江さんも入る予定だったんです。
「予定だった」というのは、この雑誌の制作中に、あのライブドア事件が起こったんですね。
カバー写真を撮っていただいた篠山紀信さんと打ち合わせをしていたときに事件の知らせがポーンと入って来て、「ええ?」と思って。「なんだこりゃ」って。詳細を聞いた瞬間に、「ああこれ結構やばいな」って思ったんですよ。
2006年1月23日、結局、堀江さんは逮捕されました。もちろん、彼に関する記事も雑誌から落とすことになりました。でもぼくの中では、刑事罰に値することをやる人じゃないっていうのは、最初から思っていたんです。あんなに自分に厳しい人を見たことがなかったので。「どう考えてもこれ、おかしいな」と思って。テレビを見て「ちょっとかわいそうだな」と思っていました。
3ヵ月後の4月26日、彼と懇意にしている経営者から「堀江さんが明日、拘置所から出てくるよ」という連絡を受けました。そのときに「堀江さんによろしくお伝えください」とお話したところ、拘置所から出てきた翌日に堀江さんから「福井さん、ご迷惑をかけました」みたいなメールがきた。ぼくは反射的に「大変だったね」とメールを送りました。
すぐに六本木ヒルズに行って、モツ鍋をつつきながら彼と酒を呑んだんです。事件のことを話せるような状況ではなく、どうでもいい世間話をしたり、一緒にアダルトビデオを観たりしたのですが、堀江さんはかなり精神が衰弱しているようでした。ぼくは「やはり彼は罪人なんかじゃない」と確信しました。
「福井さんって夢ないんですか?」
2008年の2月。高裁で負けたときのことです。
彼のマネージャーから「いま恵比寿でみんなで食事をしているんですが、福井さんも来ませんか?」ってお誘いがきたんです。
行ってみると、お通夜みたいな雰囲気で、みんなでシンガポール料理を食べていました。その後、2軒くらい飲みに行ったんですが、堀江さんは根はマジメな人なので、ずっと仕事の話をしていたんですね。そして急に「福井さんって夢ないんですか?」って聞かれました。
ぼくはそのとき、正直夢なんてなかったんです。なかったけど「夢はないけど、こういう店があったらいいなっていうのはありますよ」と答えました。
当時はよく「村上春樹さんのような誰もが知る作家がオリジナルのものを書いて、その場で売る書店があったらおもしろいのに」ということを考えていたんです。自分がやろうなんて気はまったくなかったのだけど、誰かやればいいのにって、まわりにそんなことをよく言っていました。
すると堀江さんが「それおもしろいじゃないですか! 福井さんやってくださいよ! 福井さんが金出せばぼくも金出すから、やりましょうよ!」 と言ってくれて。それがSPBS誕生のきっかけになるのです。
だからぼく自身、ずっと書店をやることを目指していた、というわけではなくて、たまたまそういうかたちで行き着いたんですよね。本当に不思議な縁というか。堀江さんという歴史に残るような人と、こういうきっかけで本屋を起ち上げるってこと自体が、すごく不思議だし、こんな本屋は後にも先にも出てこないと思います。
(<2>に続く)